10日後に恥じない生き方【努力】
その時は本気でそう考えて記事を書いているはずなんだけど、次の日とか一週間後とかに自分が書いた記事を読み返すと、どうも稚拙な考えに思えてしまう。
かといって、日々成長して考え方が大人になっているという訳でもない気がする。
「へ理屈がうまい」という欠点
特に、私の場合昔から「へ理屈」を言うのがうまいという自覚を持っている。
母に「ご飯作ってるからにテーブルをすぐにかたずけなさい」と言われも、私は「別にご飯が完成する15分前に片づけても5分前にかたずけても変わらないじゃん、後でやる~」って言いながら寝そべってテレビを見ていた。
そして、この「へ理屈」さえも、これは理論的に間違っていないと思っているので、反省することをしない。そして、時間が経ってから、「あのときなんで頑張らなかったんだろう」とか「人の言うこと聞いていればよかったなあ」という後悔におそわれる。
ヒュームの法則
「~である」という事実から「~すべき」という命題は導き出せない。
ヒュームの法則
つまり、先生や親が「~しなさい」とアドバイスをくれたとしても、私は「~すべき」理由を永遠に否定することが可能になるということである。
例えば、「今、就活を頑張った方がいい!」というのは、私にとって新卒で入社できる唯一のチャンスの時期が今で、将来のことを考えても絶対に今気合を入れて就活をするのが一番だと思う。
しかし、これに対して「別に就職してなくても幸せな人もいるし…」と、今はこれ以上考えないようにするが、考えようと思えばどこまでも考え続けることができてしまう。
つまり、理論で就活をすべき理由について考えることは、非常に自分にとって無意味な行為であることがよく分かる。
じゃあどう乗り切るか
もう、「気合!」
これに尽きるんじゃないかな(笑)
今まで、自分が一番成長したときのことを思い返すと結局、「あの人に勝ちたい!」とか「見返してやりたい!」とか「めっちゃ悔しい!」みたいな思いを持って取り組んでいた。
逆を言うと理論で考えているときには、成長できないということ。
理論で人は逃げることができる、だけど逃げた先に成功はないし、成長もない。
10日前の自分へ
10日前の過去記事。
確かにどの逃げ道も理論的には間違っていなくって、今の自分でも理論に否定することはできない。
だけど、その道で後悔せず幸せに生きていけるかは別問題。
経験上、こんな感じで逃げ道を探しているときは、必ず後悔してきた。
シンプルに考えるなら、私は今、理論的に就活から逃げる道を探してはいけない。
なぜなら、後悔するから。
トライアスロンは努力だ
トライアスロンをやめた自分には、とても心にグサッときた言葉。
私は大学入学したばっかりのときトライアスロンを完走したいと思ってサークルに入ったんだけど、アルバイトをしないとお金が足りないとか朝練が眠いとかっていう言い訳をしてやめた。
「トライアスロンは努力だ」
これは、顧問の先生が、いろんなスポーツがあるけどトライアスロンは確実に努力と比例して伸びるという意味で言った言葉。
トライアスロンをやめてしまっている自分にとってはこの言葉が、「自分は努力できなかった人間である」という風に置き換わった。だけど決して、マイナスの感情ではない。
幸いにも、「悔しい」と思えた。
そう、努力できない自分は嫌だ。
この気持ちさえあれば、就活を乗り切れるはず。
「就活は努力だ!」
おわりに
10日後の自分が読んでも恥ずかしくない記事。
10日後の自分がみても、恥ずかしくない生き方。
10日後の自分が後悔しない行動。
今この瞬間だけの感情に惑わされない生き方ができるようになりたいな。
[中間地点からゴールは見えない、走り続けよう!]
今日の一言