なぜ『美しい』は最強なのか
はじめに
[真・善・美]
人間にとっての普遍妥当な価値。
だけど、どれだけ考えても謎の多い三兄弟だ。いや、三つ子か。いや、もとは一人で分裂した存在か。いや、もしかしたら同一人物を違う名前で呼んでいるだけなのか。分からん"(-""-)"
今回着目するのは三兄弟(仮)の末っ子、『美』。
「美」という語について
一般に日常的な用語法では、「美しい花」とか「美人」というように感覚的な美しさという意味で美ということばは使われることが多い。しかし、美ということばの意味するところは、事実はるかに広い範囲である。
樋口聡『スポーツの美学』
夕日を見てて美しいなあとか、このバイクのフォルムが美しいというような意味で使うとき、それは狭い意味での「美」を指すようだ。
じゃあ、広い意味での「美」とはなんなんだ(;^ω^)?
広義の美
美学の対象としての美は、普通に「美しい」といわれるものも当然含むが、普通には「美しい」といわれないもの、例えば崇高なもの、悲壮なもの、滑稽なものなどを含む。
樋口聡『スポーツの美学』
地球とか宇宙とか仏像とかは崇高なものだけど、夕日やバイクの美しさとはまた違う。かけっこのスタートで転んでしまった子どもが痛みを我慢しながら再び走り出す姿は、一番にゴールテープを切った勝者の美しさとはまた違う。「美」が何であるかをたくさんの人が知ったところで、それは決して社会的に有用なものではない。そんなバカバカしいことはせずに、一つでも多く論文を読んでよい卒論を書き上げる方が良いに決まっている。卒論に力を入れる方がよいに決まっているのに、「美」についてのブログ記事を書き込むこの滑稽な姿に、主は美的価値を確信しているに違いない。そうでなければ主はパソコンにUSBを差し、ワードに画面を切り替えているだろう(笑)
要するに、広義での「美」とは、崇高なもの、悲壮なもの、滑稽なものなどを含み、夕日とかお花のような一般的に「美しい」というものだけを指すわけではない。
ふむふむ"(-""-)"
「美」というのが広い意味で使われることは分かった。じゃあ、その「美」というものの価値の何がそんなにすばらしいのか。
なぜ「美」は最強の価値なのか
お金・健康・権力・影響力、、、
価値といわれるものはいろいろ。
だけど、よくよく考えてみると、お金は使ったときにはじめて価値となり、健康はその健康な身体を使って社会に貢献したときに価値となり、権力はそれを駆使して弱い者を守ったり育てたりすることで価値となり、影響力はそれを活用して多くの人を救ったり元気づけたりしたときに価値となる。だけど、お金も健康な身体も権力も影響力も、それ単体では価値とはなり得ない。
「美」というのは、何かのために使うことで価値となるわけじゃない。お金とか健康とかと違って、「美」とは人間が求める最強の価値なのだ。
まてまて( ;∀;)最強は言い過ぎでは?
「美」は失うことができない
もし私が持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう。
エーリッヒ・フロム『生きるということ』
お金も健康も権力も影響力も持つことができる。持つことができるとは、逆にいえば失うリスクがあるということだ。昨日までお金持ちだったのに、突然の不運で会社が倒産することだってもちろんある。同様に、健康な身体も権力も影響力も、不運によって失い得る価値である。
しかし、「美」というものは感じるものであり、そもそも持つことができない。だから、「美」が幸運によって感じられることがあっても、決して不運によって失われるようなことはない。
その意味で「美」というのは、“最強”な価値といえよう。
なるほど~(*'▽')
答えのない問題における「美」
私は○○大学の4年生。卒論の提出日は明日、あと3000字ほどだ。しかし、私はブログを毎日書くと約束していた。今日、ブログを書けば卒論の提出は間に合わない。卒論をやればブログを毎日書くという約束は破られることになる。私は、頭を抱えてベットに横たわった。
主著(フィクション)
(そんな追い込まれる前に卒論終わらせとかんかい( `ー´)ノ)
この大学生には3つの選択肢が考えらえる。
①ブログの約束を破り、卒論を終わらせる。
②卒論の提出をあきらめ、ブログの約束を守る。
③何も考えない。
卒論を提出しなければ、卒業ができない。大変なことだ。しかし、約束というものは破るためにあるものではない。守るためにあるものだ。
明確にどちらを選ぶことが正しいという答えは存在しない。
約束を守って留年の道を選ぶこともその人の人生であり、約束を破り卒業する道を選ぶのもその人の人生である。
どれだけ、「真理」を追求しても答えが出ない。どれだけ、どちらが「善い」か考えても答えが出ない。
“美”に委ねることによってしか答えの出せない問題が、生きているとちょくちょく、いや頻繁に生じるのだ。
「美」が感じられない人は、うちのゼミだけ卒論の期限が早すぎるだとか、約束なんてみんな破っているというような言い訳に走るか、③の何も考えないという道を選ばざるを得ない。どちらにせよ残されるのは“責任”を逃れようという道である。
「美」が感じられない人
「美」が感じられない人とはどのような人だろうか。
「美」が感じられない人、すなわち「美」を価値だと認めることができない人ではないだろうか。
「美」はそれ単体で最強の価値であるがゆえに、「~のためになる」というような、客観的な有用性をもたない。
普通、価値といわれるものは、お金・健康・権力・影響力のような、「~のためになる・使える・手段となる」ものである。お金は量を比べることができる、健康も他人とある程度比べられる、権力はどれだけ立場の弱い人を支配しているかでみることができる、影響力は今日であればフォロワーといったり読者数といったものでみることができる。どれも、わかりやすい。
そんな分かりやすい価値に比べて、「美」という価値は他人と比較できるものではないし、量を持つものではない。量を持たないもの、客観的に分からないものは価値ではない。そんな人にとっては、「美」は価値だと認められないであろう。
おわりに
【感覚を愛しなさい】
感覚や官能を、下品だとか、不道徳だとか、偽りだとか、脳の化学的反応にすぎないとか言って、自分から無理に遠ざけてしまわないように。わたしたちは、感覚を愛してもいいのだ。感覚はそれぞれの程度で精神的なものになるし、人間は昔から感覚を芸術化し、文化というものをつくってきたのだから。
フリードリヒ・ニーチェ(白鳥春彦訳)『ニーチェの言葉』
感覚を愛してもいいのだ。
今日の一言
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