ミカヌエルの誌し。

~多趣味な<ふつう>の大学生よるブログ~

看板を禁ず【看板】そして哲学の価値

 <はじめに>

 

哲学は就活では一切役に立たない。

 

就活どころか、社会と呼ばれる場所では全く役に立たないらしい。

 

だけど、本当に哲学をすることに価値はないのかな…

 

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 [ここに看板を設置することを禁ず]という看板

 

さて、本題。

ここに看板を設置することを禁ず ーー区 ○○警察署

 

この看板を立てることの意味は何でしょうか?

 

それだったら、「A4サイズの張り紙ならここにしてもいいよ~だけど周りのお店といざこざにならないでねー」ぐらいの感じで書いてあった方が、なんか平和な感じしない?

 

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確実に、このコーン[ここに看板を設置することを禁ず]という看板は、決して広くはない歩道の場所をとっていて、外観を悪くしている。

 

だからと言って、この看板の意図が分からないというわけではない。

 

この看板がある意味って、看板を置かないと好き勝手にお店の看板を設置されてしまうからだということはだいたい予想がつく。

 

一つの店舗が看板を立ててしまうと、「じゃあうちも。」「じゃあうちも…」「じゃあうちはもうちょっとおっきい看板に…」と次から次へと看板を立てる店舗が増えて、それこそ歩道が看板だらけになってしまう可能性も出てくる。

 

そして、看板が立てられる度に注意しに行っているのでは、警察さんも大変だし他の業務に支障が出てしまうことも想像できる。

 

となると、文字で分かりやすく知らせる⇒看板を設置する

 

という流れで、看板を設置することになる。

 

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“異常”が普通な世の中

 

この「看板を禁ず看板」の何が怖いかって、こういう何気ない“異常”なことに慣れてしまっていること。

 

看板の設置を禁止する意味を考えたら、[看板を禁ず看板]が設置されていることって“異常”なことだよね?

 

視野を広げると、世界には奇麗な水が飲めなかったり、食べ物がなくて人間らしい生活ができない人がいたり、まだ平均寿命が50歳を切る(ゼロ歳で死んでしまう)という国がたくさんある。

 

だけど、多くの人は200ミリリットル単位で水を節約しようとしないし、飲食店やコンビニでは毎日残った食材が捨てられていることをもったいないと思いながらもどこか普通だと感じているし、自分が今の年齢まで生きていることを当たり前と感じこれから生きていくだろうということに何となく確信を持っている。

 

確かに自分が水を節約したところでアフリカまでその水を運ぶことはできない。残った食材を飛行機に乗せて運ぶのも現実的ではない。自分が明日死ぬのではないかとビクビクして生きることのメリットは何もない。

 

理論的には全く間違っていないから余計厄介。

 

だけど、慣れてしまっている“異常”に対して問題意識を持って、「やっぱりおかしい!」といえる勇気って大事だと思う。

 

今、どうにかできない問題でも、”問題意識”さえ持ち続けることができれば、いい解決策が見つかるかもしれないし、見つけようと努力することができる。

 

確かに「やっぱりおかしい!」と声を挙げることは、“いい感じに円滑な人間社会”には邪魔だと思われるかもしれない。

 

だけど、“本当に健全な人間社会”を築いていくには、”異常”なことと向き合うことって大事なんじゃないかな。

 

「やっぱり、看板を禁ず看板の設置はおかしい!」

 

私は、そう思うな。

 

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<追記>

 

確かに哲学は、“円滑な人間社会”にとっては邪魔者なのかもしれない。

 

だけど、“本当に健全な人間社会”を築き、そして人類が終焉を迎えないように、おかしいことに対して「やっぱりおかしい!」と声を挙げられる、そういう哲学者ってやっぱり社会には必要な存在だと思うんだよね。

 

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  <今日の一言>

財布にGBSをつけるべきか。。。