本を読むことと知識の共有【一人でいること】
運動しない、本を読まない、スマホを見ない、買い物しない、考えない。
何もしない状態でいるのって思っている以上に難しいことなんだよね。
何もしていないと落ち着かないから、特に理由もないけど健康のためって言ってランニングしに出かける。でも、それだけだとモチベーションが保てないって言って、新しいナイキの靴を買う。 ついでに、新しいジャージも買っちゃったりする。2日続いたかと思えば、3日目には今日はアクティブレストとか言ってベットに寝転がって本を読み始めたかと思いきや、いつの間にか持ってたはずの本がスマホに変わっている。ちょっとわからない単語調べようと思って、検索しただけなのにいつの間にか、amazon開いて欲しいものがないか物色している。
一人でいる努力をしてみれば、それがいかに難しいことかわかるはずだ。一人でいると、そわそわと落ち着かなくなり、かなりの不安を覚えたりする。こんなことをしても何の価値もない、ばかばかしい、時間をとられすぎる、などという理屈をこねては、この修練を続けたくないという自分の気持ちを正当化しようとする。
エーリッヒ・フロム著『愛するということ』
結局何もしてない状態に耐えることができないから、モノを買ったり無駄に働いたりして、「一人でいる」時間を紛らわすしかなくなっちゃうんだよね。
最近だと、スポーツ競技の現役を引退して、薬物依存で捕まった元プロ野球選手の清原選手や万引きがやめられなくなってしまった元陸上選手の原裕美子選手がその例だよね。
今までスポーツをすることで埋めてきた時間を、何に使っていいか分からなくて、いきなり「一人でいる」自由な時間を与えられても、どう使っていいか分からないんだよね。
だから、何かに“依存”することでしか、「一人でいる」時間を埋めることができない。
人によっては、パチンコかもしれないし、アルコールかもしれないし、勉強かもしれないし、仕事かもしれないし、また別の何かかもしれない。
私自身も、この20年間を振り替えると、いろんなものに依存してきたなって思う。
私は、中高ソフトボールを比較的真面目にやってきたんだけど、高校を卒業するまではソフトボールに“依存”してたなんて思っていなかった。
だけど、いざ引退して大学に入学してみると今まで部活動で埋めてた時間とか、活躍することで埋められていた承認欲求とかが満たされなくて、漠然とした不安を常に抱えていた。
もし私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう。
エーリッヒ・フロム著『生きるということ』
速い球を投げる技術を持ち、強い打球を打ち返せる技術を持つことで監督に認められ、成績を出すことで部活以外の先生や保護者からも自分の存在を認めてもらえる。自分にはソフトボールしかないと思って、もっと一生懸命練習するようになる。
でも、裏を返せば、自分はソフトボールで活躍することによってしか存在を認めてもることができないってゆう不安感や孤独感に突き動かされていただけだったんだなと今となっては思える。
もちろん、実業団に入れるほどの実力があったわけではないし、大会でもいい成績をおさめることはできなかったから、必然的にソフトボールはやめてしまった。
ソフトボールに無意識に“依存”していた私は、それを失って自分が何者なのか?ってことが分かんなくなっちゃったんだよね。
そんなこんなで大学2年生の夏ぐらいまでは、「ぽかーん」としながらバイトしたり自転車乗ったりユーチューブみたりして生活していたわけなんだけど、ちょっと社会的に認められている趣味でも持つか〜ってことで本を読み始めたところから生活とか考え方とかが変化していった。
もちろんん本を読むことで「一人でいる」孤独な時間を埋め合わせているっていう自覚はある。
だからこそ、本に“依存”はしないようには注意している。
本に“依存”するっていうのは、「読まないではいられない!」とか「新しい情報を頭に入れ続けたい!」みたいな感じ。
これは、完全に本から知識を得ること(=知識を持つこと)に執着しているよね。
確かに本を読んで知識を得ることは大事なことではあるんだけど、その知識をどう活かすか、どう発揮するかってことの方が何倍も大事。というより、知識を持ったまま発揮しなければ、持っていないのとそんなに変わらないんだよね。
持っているモノは使う。
これは物質てきなモノだけじゃなくて知識とか自分の能力とかも同じことが言えるよね。
本で得た知識を生活に活かす。そして、役立った知識はかならず“共有”する。
知識って人にあげたからって減るモノではない。
だったら出来るだけたくさんの人と“共有”した方がいいよね。
知識を“共有”してみんなの幸福度が上がったら、それ以上にいいことはないよね。
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<今日の一言>