【反省】あの後、英単語を覚えなかった件について
<はじめに>
私は約6ヵ月前にこんな記事を書いた。
いかにも、「これから英単語の勉強始めます!」
っていう内容。
嘘はつきたくないので、正直に言いますと、その後英単語の勉強は一週間程度しか続きませんでした(笑)
笑ってごまかしちゃいけないんだよね。
こういうことを繰り返すと、何か目標を立てて、人に喋ったとしても「どうせまたあいつすぐ辞めるだろう」って思われるようになる。
そして、そう思われることが当たり前になると、「途中でやめても、誰も責めない」と思うようになって、結局目標を達成しないことが当たり前になってしまう。
“信頼”の構築
最近、キングコングの西野亮廣さんにハマってて、その西野さんがこんなことをよく言っている。
お金を稼ぐよりも、“信頼”を稼げ。
by.西野亮廣
お金がなくっても信頼さえ構築できていれば、本当に飢えているときに必ず誰かが助けてくれる。
“信頼”さえ構築しておけば、いざ「これがしたい!でもお金がない…」ってなったとしても、「○○さんなら、絶対やってくれる!」、「自分も手伝いたい!」って思った人たちが、お金を寄付してくれたり、助けてくれたりする。
絶対に“やり遂げる”
だからこそ、「これをやります!」って言ったことは、小さなことでも絶対にやり遂げなければいけない。
「英単語を覚えます!」って言ったら、どうやってでも覚えないといけない。
ムリなことは“口に出さない”
今回の件で、私が最も反省すべきことは、
発した言葉に責任を持つということ。
そして、絶対に嘘にしないこと。
言う前に、自分の中で本当に達成しうる目標か、一度整理すること。
まだまだ、直観があてにならない間はその作業が必要だと思う。
自分ができないと思ったことは「○○をやります!」とは言わない。
これには、賛否両論あると思う。
できないと思っても、言うことによって実現が可能になるのではないか?
確かに、そういうことも無くはないと思う。
言うことによって情報が集まって、仲間が増えて、夢が現実になる。
確かにそう。
だけど、それって「信頼の構築ができている人」に限るんだよね。
仮に、信頼が構築できていない人が夢を語ったとしても、「どうせあいつは途中でやめるんだから、情報を与えても時間の無駄だ」とか「途中でやめるような人に協力はできないなぁ」ということになる。
つまり、優先的にやらなきゃいけないのは“この人なら言ったことは必ずやり遂げる”という信頼を構築すること。
それがあってこそ、“夢は口に出す”にメリットが生じると私は思う。
<おわりに>
だけど、ごめんなさい。
「英単語は私には無理です(笑)」
まずは、自分の現状を冷静に見極めて、「やりたい×実現可能」な目標を設定するスキルを高めていくことが必要なよう。
ということで、まずは“的確な目標を設定するスキルを高める”ということを目標にしていきたいと思う。
<今日の一言>
看板を禁ず【看板】そして哲学の価値
<はじめに>
哲学は就活では一切役に立たない。
就活どころか、社会と呼ばれる場所では全く役に立たないらしい。
だけど、本当に哲学をすることに価値はないのかな…
ーーー
[ここに看板を設置することを禁ず]という看板
さて、本題。
ここに看板を設置することを禁ず ーー区 ○○警察署
この看板を立てることの意味は何でしょうか?
それだったら、「A4サイズの張り紙ならここにしてもいいよ~だけど周りのお店といざこざにならないでねー」ぐらいの感じで書いてあった方が、なんか平和な感じしない?
確実に、このコーンと[ここに看板を設置することを禁ず]という看板は、決して広くはない歩道の場所をとっていて、外観を悪くしている。
だからと言って、この看板の意図が分からないというわけではない。
この看板がある意味って、看板を置かないと好き勝手にお店の看板を設置されてしまうからだということはだいたい予想がつく。
一つの店舗が看板を立ててしまうと、「じゃあうちも。」「じゃあうちも…」「じゃあうちはもうちょっとおっきい看板に…」と次から次へと看板を立てる店舗が増えて、それこそ歩道が看板だらけになってしまう可能性も出てくる。
そして、看板が立てられる度に注意しに行っているのでは、警察さんも大変だし他の業務に支障が出てしまうことも想像できる。
となると、文字で分かりやすく知らせる⇒看板を設置する
という流れで、看板を設置することになる。
ーーー
“異常”が普通な世の中
この「看板を禁ず看板」の何が怖いかって、こういう何気ない“異常”なことに慣れてしまっていること。
看板の設置を禁止する意味を考えたら、[看板を禁ず看板]が設置されていることって“異常”なことだよね?
視野を広げると、世界には奇麗な水が飲めなかったり、食べ物がなくて人間らしい生活ができない人がいたり、まだ平均寿命が50歳を切る(ゼロ歳で死んでしまう)という国がたくさんある。
だけど、多くの人は200ミリリットル単位で水を節約しようとしないし、飲食店やコンビニでは毎日残った食材が捨てられていることをもったいないと思いながらもどこか普通だと感じているし、自分が今の年齢まで生きていることを当たり前と感じこれから生きていくだろうということに何となく確信を持っている。
確かに自分が水を節約したところでアフリカまでその水を運ぶことはできない。残った食材を飛行機に乗せて運ぶのも現実的ではない。自分が明日死ぬのではないかとビクビクして生きることのメリットは何もない。
理論的には全く間違っていないから余計厄介。
だけど、慣れてしまっている“異常”に対して問題意識を持って、「やっぱりおかしい!」といえる勇気って大事だと思う。
今、どうにかできない問題でも、”問題意識”さえ持ち続けることができれば、いい解決策が見つかるかもしれないし、見つけようと努力することができる。
確かに「やっぱりおかしい!」と声を挙げることは、“いい感じに円滑な人間社会”には邪魔だと思われるかもしれない。
だけど、“本当に健全な人間社会”を築いていくには、”異常”なことと向き合うことって大事なんじゃないかな。
「やっぱり、看板を禁ず看板の設置はおかしい!」
私は、そう思うな。
ーーー
<追記>
確かに哲学は、“円滑な人間社会”にとっては邪魔者なのかもしれない。
だけど、“本当に健全な人間社会”を築き、そして人類が終焉を迎えないように、おかしいことに対して「やっぱりおかしい!」と声を挙げられる、そういう哲学者ってやっぱり社会には必要な存在だと思うんだよね。
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<今日の一言>
チャリ通・バイク通学ミニマリストの迷ったら持っていく唯一のモノ
ミニマリストって身軽でいたいからから、今日授業で使う教科書みたいに絶対に必要って分かっているモノとか、持たずに運転すると社会的なルールで罰せられちゃう免許証のようなモノ以外基本的に置いてっちゃうんだよね。
迷ったら持ってかない。
なくてもどうにかなるものは置いていく。
は、ミニマリストの基本。
だけど、元チャリ通、現バイク通学の私が、経験上迷った場合持って行った方がいいと分かったモノが一つあるので紹介したい。
それは何かというと「雨合羽」。
スマホで天気を確認して午後の予報が60%くらいだったとき。
「雨合羽」を持っていくかめっちゃ迷うんだよね(笑)
ここで、いつも通り「迷ったら置いていけ!」の思考で私は何回か失敗を犯した。
特に、冬の雨ってめちゃくちゃ冷たくって、さらにバイクだと前からの風を受け止めるからめちゃくちゃ寒い。間違って薄着だったときなんかは地獄。
あともう一個の失敗事例は、学校から直でバイト先に行くのに、雨が降ってしまった日。その時はコンクリートに跳ね返るくらいの大雨が降っていて、でも家に帰ると時間がないから、びしょびしょになりながらバイト先に行った。もちろん、タオルも家に置いてきちゃってるから、バイト中はびしょびしょのまま。めちゃくちゃ寒くて接客どころじゃなかった(涙)
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私にとってなぜ「雨合羽」は必要か
「なくてもどうにかなる」ってゆう考え方って、人間関係とかお金の使い方にも応用できてとてもいい考え方だと思っている。
「雨合羽」がなくっても、“寒い思い”という代償はあるが、どうにかはなっている。
だから、本来「雨合羽」だって「なくてもどうにかなる」モノなのかもしれない。
だけど、私は「雨合羽」は迷ったら持っていくべきという結論に至った。
この理由として、天気を見て持っていくか迷った時に、すでに使う確率が高いことが分かっていること、そして濡れながらバイクに乗ったりアルバイトをしたりすることが自分にとって大きな負担であるということの二つが挙げられる。
つまり、自分にとって迷ったら持っていくべきモノとは、
使う確率が高い(高いの基準は感覚)
×必要だった場合の負担が大きい(長時間の苦痛、人に迷惑をかける、多くのお金を払うなど)
だということが分かった。
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<おわりに>
同じミニマリストでも、生活環境も違えば、性格も十人十色。
自分にとっての苦痛が他の人にとっては何でもないことだったり、逆に他の人が苦痛と感じることが自分にとっては何でもないことだったりする。
私は、YouTubeとかインスタで他のミニマリストの先輩の暮らしをよく拝見させてもらってるんだけど、同じモノを持ちたいとか、同じ仕事をしたいとかはあんまり思わないんだよね。
だけど、そのモノを持つに至った思考の“プロセス”とか、その仕事をするに至った考え方の“プロセス”はとても参考にさせてもらっている。
うまくいっている人たちの“型”を盗んで、自分の性格や現状に当てはめて応用する。
特に、めちゃくちゃ突出した才能がないと自覚している人は、1から考えようとしても、天才の発想には絶対に勝てない。それなら天才たちの“型”を盗みまくる方法が一番なんじゃないかと私は思っている。
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<今日の一言>
大学受験の失敗を“今”に生かす
この時期になるとセンター試験を思い出すんだよね。
元旦に北予備の模試受けたこととか、放課後学校で勉強してマック行って勉強して塾行って勉強してって自転車走らせまくったこととか、センター当日大雪でめっちゃ早く家出た結果全然会場に人おらんかったこととか……なつかしいなぁ。
だけど、高校3年生の受験期の過ごし方を思い出すと、いろいろ反省した方がいいところがあると思うんだよね、今更だけど(笑)
今回はそんな受験期の反省を3年越しにやっていきたいと思うよ。
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①楽しくないならやめた方がいい
「いやいや、嫌な勉強、苦痛な勉強をやり抜いた末に“結果”が出るんだよ」という考えの人もいるかもしれないけどそんなことはないんだよね。
例えば、野球で結果を残したくってバットを振っているとき、自分がホームランやヒットを打っているとところを想像しながら振ると、その時間は案外苦痛じゃない。
だけど、ただただ一日300回降れと監督に言われたからやっている、というのだと苦痛になるし、質も落ちて本当に意味のない時間になってしまう。
やってる時間が「苦痛」だと感じているなら、私はやらないことをお勧めする。
だけど、やめる前に一つやって欲しいのは「自分なりに楽しむ方法はないか?」を考えるということ。
例えば、英語の勉強だったら、頻出単語や熟語で自分だけの文章を作って読む。
生物の勉強だったら、実際に外に出て、草木を眺めながら細胞の勉強をする。
ここで大事なのは、“自分が楽しい”と思うということ。
友達や先生の勉強の仕方を参考にするのはいいけど、人それぞれ合う合わないは絶対あるし、“心の底から楽しいこと”は意外と十人十色なんだよね。
だから、本当に自分が楽しく勉強できる方法を探すこと、どうしても楽しむ方法が見つけられないなら、やめて得意分野(楽しめる分野)に力を注ぐ決断力も大切だとおもうよ。
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➁机に向かう=勉強ではない
これは本当に反省しているんだけど、受験期当時は机に向かっている時間ばかり気にして、「やった気」になってた。
平日はたぶん4時間くらい勉強していたと思うんだけど、たぶん本当に集中してたのは1時間くらいだったと思う。
1日〇時間勉強しているって数字で言ったり、実際に長時間机に向かっていたりすると、それだけで先生や親からの評価を得ることはできる。
だけど、本当に大事なのは他者からの評価ではなくって、点数で結果を出すことだよね。
他者からの評価にムダに時間を使って、自分の人生の質を落としたくはないよね。
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③努力しているフリで得られるものは何もない
「あいつは、頑張らなかったからダメだったんだ」、「あんなの落ちて当たり前だ」、「あんなにサボってたやつが受かるなんて許せない」と言われる覚悟を持つこと。
これがなかなか難しい。
睡眠時間を削って勉強してたり、隙間時間ずっと単語帳を読んでたりする人に対して、悪い言葉をかけることができる人っていないと思う。
つまり、「形」さえ勉強をしていれば、誰も責める人はいない。
ただ、「形」を気にしすぎて、「形」だけになってしまうと、好い結果は絶対にでない。
客観的に努力しているという「形」は、ダメだった時の言い訳になり得るんだよね。
正直周りの評価は、事実ではない。周りの評価というのは、すべてその人の主観。
「形」に集中力が分散してしまうのって、もったいないことだよね。
それなら、勉強をより楽しく、面白くすることに力を入れる方がよっぽどいいよね。
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④とにかく自分に「ポジティブ」な声かけ
一つ単語を覚えるごとに「よっしゃー!」とか、模試で勉強した問題が出たら「ラッキー!」って心の中で唱えると、勉強がどんどん楽しくなっていくんだよね。
人ってプラスの感情とマイナスの感情を同時に感じることってできないから、勉強している間は常にポジティブな声かけを意識して、勉強=楽しいものにしてしまうのがいいんじゃないかな。
そして、特にポジティブな声掛けが生きてくるのは、受験当日。
受験当日って、何があるか本当にわからないんだけど、私の場合最初の科目の国語が全然できなくって、解けば解くほど、「やばい、やばい…」ってゆうマイナスの感情でどんどん力が発揮できなくなっていった。
それもあって、次の英語は切り替えようと思い、自分に「英語は塾の先生にしっかり教えてもらったし大丈夫!」「いけるっしょ!」ってゆう、厳密にいうと根拠はないんだけど、とにかくポジティブな声掛けを心の中でし続けた。
結果、国語の点数は半分なかったし、一方で英語は今まで受けたどの模試よりも高い点数を取ることができた。
これが偶然ってゆうのも否定はできないけど、やっぱりテスト中の「気分」って、結果にも影響すると思うんだよね。
スポーツでも、「勝てる気がしないな~」「打てる気がしないな~」「エラーしそうだな~」って、マイナスなことを考えていると本当にそうなっちゃうよね。
マイナスの感情を抱いている間って、成長もないし、挑戦もできない。
現実を悲観的にみている間って現実逃避ができちゃうから、マイナス思考についつい甘えがちなんだけど、結果を求めるなら、絶対にプラス思考が良いんだよね。
「ポジティブを意識すること」は今この瞬間からでもできること。
せっかく同じ時間を過ごすなら、楽しい時間、幸せな時間にしてしまいたいよね。
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<おわりに>
過去の経験ってそのままにしがちだけど、振り返ってみると今に生かせる学びがたくさんあるんだよね。
起きた出来事を、「楽しかった、面白かった、悲しかった、悔しかった」とかってゆう、ありきたりな表現で終わらせるのはよくないと思うんだ。
何がどのように楽しかったのかとか、何でそんなに悔しかったのかとかを細かく分析してみると、これから自分がどんな感情や結果を求めて生きていきたいのかってゆうのが明確になってくると思うんだよね。
過去の嫌な記憶も、冷静に向き合って、何がどのように嫌だったのか、どうしてそんな嫌なことが起きたのか、それは回避することができたのかって言うことを分析することで、未来をよくする“価値”あるものに変えることができる。
失敗が“価値”になると思うと、挑戦も怖くないよね。
ーーー
<今日の一言>
【抱負】集中・ポジティブ・運を高める努力
新年あけましておめでとうございます(祝)
2020年もよろしくお願いいたします。
物心がついたころから、お正月初めて会う人には「あけましておめでとうございます」って言ってきたけど、これが言えることって本当に素晴らしいことだよね。
人間の唯一の共通の仕事である「生きていること」を一年間の努力の末に成し遂げたわけだから。
というわけで、2020年も元気いっぱいで生きていく予定なんだけど、ただ生きていているという目標ではつまらないなので、一応今年の“抱負”というものを掲げておこうとおもうよ。
ーーー今年の抱負ーーー
集中!ー人事を尽くして天命を待つー
ーーー
2020年の抱負「集中!」に決めた理由
別にネズミ年だから「集チュー!」ってゆうギャグで決めたわけじゃないんだよ。これは偶然(笑)
それはおいといて、2020年の抱負を「集中!」にした理由はかなりシンプルで、2019年なんとなく大事と思いながらも、力を入れることができなかったから。
だけど、大事だって分かっていながら、「集中」できなかったのが昨年なんだけど、それが何でなのかが今までは分かっていなかったんだ。
だけど、そんなとき偶然、元陸上選手の為末大さんのツイッタ―をのぞいてた時に、こんなツイートを読んだんだ。
為末さんのツイッタ―は匿名の質問に対して答えるというのがあるんだけど、まずは、その時の質問がこれ。質問した人にはとても感謝したい。
為末さんのコメントの中に“今を生きる”というワードがよく出てくるように感じています。“今を生きる”とはどういうことですか?
匿名質問者
ただただ人の言ったことを受け入れるだけじゃなくって、「それってどういうこと?」って考えて、質問して、消化しようとする姿勢ってとっても大事だよね。
そして、それに対しての為末さんの返答がこれ。
過去を悔やむ、未来を憂う、他人を羨む、自分を責める、ことを止めることです。今ここの自分にできることに集中することです。
為末大(2019.12.29ツイートより)
これまで、集中しよう集中しようって思って、できてこなかったんだけど、本来私がするべきなのは、「過去を悔やまない・未来を憂わない・他人を羨まない・自分を責めない」ことだったんだよね。集中するってどういうこと?って匿名の質問者さんのように自分に問うことができていれば、もうちょっと早く分かったことなのかもしれない。
だけどここで、「あー、なんで昨年の自分はこのことに気が付けなかったんだー」って過去を悔やんじゃいけない。
今できることは、過去を悔やまず、今に“集中”すること。
過去の失敗を“価値”に代えてしまうこと。
「成功者は失敗の体積がめちゃくちゃ大きい」っていう話を聞いたことがある。
やっぱり成功するためには、失敗はつきもので、それをどう生かすかが大事なんだよね。
私が今回学んだのは、「それってどういうこと?」って自分に問うことの大切さ。
分かっているのにできないことって、だいたい「どういうこと?」「具体的にどうすればいいの?」って言う問いが足りてないとき。
2020年は、抽象的な言葉に対してそれってどういうこと?って問うこと、自分はどうすればいいの?何を変えればいいの?って言うところまで問を突き詰めることも大切にしていきたいと思うよ。
そして、2020年の抱負が「集中」じゃなくて「集中!」な理由。
これは、「ポジティブで行こう!」って意味が込められているよ。
起きてしまった事実って、何もしなければ単に事実なんだけど、人間は何かしら解釈を加えようとするよね。
例えば、お正月が空けて今日から学校が始まるって言うのに、目が覚めたら授業が始まってたってなったら、めちゃくちゃ焦るし誰でも負の感情を抱いちゃうよね。
だけど、これをポジティブに解釈するなら、もしちゃんと起きれても寝不足の状態だったら、学校に行くまでに事故にあってたかもしれないし、友達と会っても笑顔で「あけおめー!」って言えなかったかもしれない。
めちゃくちゃな解釈かもしれないけど、起きた事実って変えられないんだから、こうでもしないとどんどん負のスパイラルに入って行っちゃうんだよね。
「初日から遅刻しちゃった、最悪~」って状態だと、なんとなく学校に行くのがイヤになったり、友達と会うのも面倒になったり、就活も嫌になったり……。やっぱり、ポジティブに勝るものはないよね。
そして、過去を悔やむことは集中していない証拠。
そんな意味でも、ポジティブ思考は大切にしていきたいと思うよ。
ーーー
サブ抱負「人事を尽くして天命を待つ」
これを付け加えた理由は、今年は「努力で運を勝ち取りたい」、そう思ったから。
私は、大学3年生でゼミに所属しているんだけど、新年一回目のゼミでそれぞれの今年の抱負を発表することになったんだよね。
その時はまだ、明確に抱負を決めていなくって、とっさに言ったのが「運を高めたいです。」って言葉。
私の所属しているゼミはちょっと哲学的なことを学んだり議論したりするゼミで、神様とか運とかって話を以前したことがあった(ちなみに私が所属しているのは文学部でも哲学科でもない(笑))。
だからゴミ拾いをたくさんしたからと言って学校の成績が上がらないのは知っているし、トイレ掃除だけを一生懸命したからといってお金持ちになれないのは知っている。
行為と運って物理的な法則では何の関連もないんだよね。
だけど、それでも私は「運」を高めたいと思った。
これはこの一年私自身が実践していくことによってしか確かめようがないんだけど、運を高める唯一の方法って、「できることをやり尽くす」ことなんじゃないかっていう結論に至ったんだよね。
できることをやり尽くそうとしている人には、神様も味方してくれるんじゃないかな。
これは、とっても根拠の無い持論だけど、根拠がないからこそ、実践する価値はあると思うんだよね。
ということで、2020年の抱負は「集中!-人事を尽くして天命を待つ-」
でいこうと思うよ。
ーーー
<おわりに>
昨年ブログを開設して、現在15名の読者さんにフォローいただいています。
読んでくれる読者さんがいるというのは、私にとってとても大きなモチベーションになっています。
人の目線で文章を書いたりお話をしたりすることがあまり得意な方ではないのですが、「発信したい!」という利己的な欲求に負けてしまいブログを書いているのが現状です。
「何を言いたいんだろう?」「もうちょっと簡潔に言ってくれないかな?」と、読者さんから指摘を受けるほどの影響力はないですが、2020年は、「もっと分かりやすく書けないか?」「もっと面白い構成にできないか?」など、より読者さん目線でブログが書けるように努めていこうと思います。
2020年もどうかよろしくお願いいたします。
ーーー
<今日の一言>
お金持ちになりたい大学生ミニマリスト【選択の自由】
ミニマリストってゆうと少ないお給料で最低限のモノだけで暮らしていくってゆうイメージがあると思う。(年収90万で生活する!みたいな…)
もちろん、大学を卒業して就職してからもその考え方を変えるつもりはない。
だけど、大学3年生の今、企業を選ぶ基準として“お給料”や“福利厚生”はちゃんと見るようにしている。
確かに、月9万で生きていけるならそんなに“お給料”重視しなくてもいいじゃん!って思うかもしれない。
だけど、私がお給料を重視する理由が二つあるんだよね。
ーーー
お給料を重視する理由①:仕事内容
給料が高い仕事って、やっぱりそれなりに仕事内容に責任が伴うものが多いんだよね。
「いや、どんな仕事も責任は伴うよ!」ってゆうのはもちろん間違いではないと思う。
だけど、責任の重さはやっぱり高い給料をもらっているほど重いようになってるよね。
例えば、アルバイトの男性が接触事故を起こしても99%ニュース報道されないけど、芸能人が同じ事故を起こすとネットやニュースですぐに取り上げられてしまう。
影響力の違いだから給料関係ないじゃん!って思うかもしれないんだけど、日本の仕事って影響力と給料って完璧でないにしてもある程度の相関関係が成り立つと思うんだよね。
例えば、人気ユーチューバーとか大手企業の社長の影響力ってものすごいよね。
そして、その人たちって“お金”がたくさん入ってくるようになっているよね。
影響力ー責任ーお金
ってやっぱり切り離せないんだよね。
私も、そんな影響力を持つ人間になりたい。(←これはただの“欲求”)
だから、私がこれから就く仕事が重い責任を伴う=影響力を持てる仕事なのかの判断基準として、“お給料”を見ていきたいと思うんだ。
ーーー
お給料を重視する理由➁:貧乏の「金は要らない」はダサい
まあ、別にダサくってもいいんだけどね(笑)
だけど、やっぱりお金持ちの「幸せは金じゃない!」ってゆう発言と貧乏のその発言とでは、全然印象が違うよね。
やっぱり、お金があってモノを買うという“選択の自由”がある状態で、必要なモノしか買わないという選択をしたい。
<買えない>と<買わない>
って全然違うよね。
前者は選択の自由がない状態で、後者はそれがある状態。
人生を充実させるには、選択の自由があって、自分でそれを選んだんだってゆう感覚が大切だと思うんだ。
だからこそ、充分な“お金”がある状態で、本当に必要なモノはいつでも手に入れられるという状態でいたい。
ーーー
<おわりに>
子どもの頃から世間にいろんな「ふつう」や「当たり前」を刷り込まれますけど、世間ほどぼんやりして当てにならないもんはない。自分の実感を基準にしたほうが、のちのち変わってしまったとしても、人のせいにしないくてすむし、長い目で見ればずいぶんラクに生きられる。
大原扁理著『年収90万円で東京ハッピーライフ』
冒頭の「年収90万」でピンときた人もいるかもしれないんだけど、実は隠居生活で有名な大原扁理さんの隠れファンなんだよね。
扁理さんは決して隠居の推奨や普及の活動をしているわけではなくって、世間の常識に合わせることに必死にならなくても全然生きていけるよ~って感じのことを教えてくれるんだよね。
扁理さんの場合は、週休2日(実際は1日?0日?)ってゆう常識に合わせずに、自分の中でベストな週休5日を選択してるんだよね。
一般的な意識だと、週5日も休んだらお金が無くなって生きていけないよ!って考えちゃうと思うんだけど、実際に扁理さんは生きているし、さらに充実した生活を送っているんだよね。
別に週休5日にしたいとは、私は思わないんだけど、週5日休んだら生きていけない!って状態で生活するのと週5日休んでも生きてはいけるけど働きたい!と思って生活するのでは全然違うよね。
これも、やっぱり後者には“選択の自由”がある。
みんなが働くから働く、みんなが働かないなら働かない、周りに簡単に左右されるようじゃ自分の人生を生きてるって感じがしないよね。
だから、私は「自分で選んでるんだ!」ってゆう感覚を大切にして生きていきたいと思う。
ーーー
<今日の一言>
ブックカバーはいらない?【今の自分にとって必要なモノ】
レジに本を持っていくと、店員さんに毎回聞かれること。
「ブックカバーは付けますか?」
「……お願いします」
「要らないです」って言えばいいものを、タピオカのストロー通しますか?のノリでお願いしますって答えちゃう。
そして、ブックカバーの着いた本が棚に増えていく。
ブックカバーが着いている本の最大のデメリットは、本のタイトルが見えないこと。
もしも、本屋さんに行って全部の本にブックカバーが装着してあったら(想像したらちょっと笑える)絶対買わないよね。
だって、タイトルのない本って誰も手に取ろうと思わないから。
自分の家にある本も一緒で、本の大きさって全て違うわけではないからブックカバーがしてあるとどれがどの本かなんてすぐ分かんなくなっちゃう。
そして、本が増えれば増えるほど、もう完全にブックカバー着きの本屋さん状態。
何度も読み返すために買ったはずの本なのに、タイトルが分からないから自然と手に取らなくなる。そして、なんとなく本を順番にパラパラめくっているときに「あれ、そういえばこの本持ってたんだ」って感じで発掘される。
特に私の場合、図書館で借りて読むことが多いから、所持している本と所持していない本の区別がつかなくなっちゃうんだよね。
あとたまに、「あの本読み返そう!」って思って、本棚見て「あ、持ってなかった。」ってこともある。
やっぱり持っている本を把握しておくことって大事だなって思う。
ってゆうことで、全部ブックカバー外しちゃえーって勢い良く外していったんだけど、結局は全てのブックカバーを断○離することは出来なかったんだよね。
というのも、やっぱり読んでる本って、自分の内面の一部みたいな感じがして、人に見られたくないものもあったりする。
自分の内面を全部さらけ出せるぐらいの勇気があればいいんだけど、どちらかというと内向的な私はやっぱり恥ずかしさを覚えてしまう。
現在の私の棚の状況は、ブックカバー着きの本が1冊と新書用の大きさのブックカバーが一つと、大きめの本用のブックカバーが一つ。それ以外は、裸の状態。
思い切って全部捨ててみるのもよかったかもしれないし、たぶんそれでも困ることはないとは思うんだけど、外で読む本は毎回ブックカバーが付いている本を選ぶことを考慮すると、最低限のブックカバーは自分には必要だという結論に至った。
今回、ブックカバーを捨てようと考えるまで、最低限3つのブックカバーが自分には必要だということに気が付くことができなかった。
だけど、いつか自分の内面を全開にして、どんな本を読んでるかも全部見せびらかしちゃえるくらいのオープンな人間になったときには、「もうブックカバーはいらない」って言って、全部捨ててしまえるかもしれない。
だから、常にモノを捨てる・買う判断をするときは、今の自分にとって必要かどうかを基準していきたいと思うな。
ーーー
<今日の一言>